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父が銀行員だったせいだろうか。
思い返すと、転勤で移動することが多かったように思う。
当時は、単身赴任なんて考えられなかったから、どこへ行くのも家族いっしょ。
大阪の出来島から始まり、保谷、九段そして広島と、
2年に1度の割合で居を移す私たち家族であった。
といっても、私には4歳くらいからの記憶しかないし、
その記憶というのもかなり曖昧。
切り取られたスナップ写真のように、動きのないものばかりだ。
世の中は、高度経済成長真っただ中。
父は朝早くから出かけ、夜中に帰宅というモーレツ社員。
身の回りのことは、すべて母に任せきりだった。
だから、転勤することになっても、荷物をまとめるとか、電気・ガス・水道などの
手続きなど引越しにともなう実質的な作業は、すべて母が担当していた。
幼い私はといえば、旅行気分で列車に乗れることが、唯一の楽しみだった。
引越しの回数が増えていくのに比例して、母は荷作りがうまくなっていった。
どうやら、本人もそれを自慢に思っていたらしい。
後に、私が東京でひとり暮らしを始めることになった時、
こちらが頼んでもないのに荷作り隊長よろしく、
やけにハッスルして荷をまとめていくのだった。
住まいを別に移そうとする時、
これまでの生活の中で使ってきたモノや飾っていたモノ、
記録や思い出として保管していたモノなどを今一度オモテに出し、
すべてのモノと向き合うことが余儀なくされる。
趣味に合わないからと、しまったままにしておいた引き出物。
食器棚に入っているのに、普段ほとんど出番のない皿やコップ。
クローゼットをのぞけば、出産前のスリムな体形そのままのスーツや
ワンピースが、貴重な空間を塞いでいる。
もはや、見て見ぬふりはできなかった。
スミレアオイハウスへの引越し、それは壮絶のひとこと。
これまでのように、一筋縄ではいかなかったのである。
段ボールに詰め込む前に、身の回りにあるモノひとつひとつを手にとり、
じろじろ眺める。
「持っていくべきか、いかざるべきか........」
いちいち自分に問いかける。
感情を押さえつつ、極めて冷静かつ厳粛に最終判断するという作業が
延々と続くのだった。
ともすると、モノの方から勝手に家に上がり込んでくる昨今。
引越しを終え、スミレアオイハウスに暮らすようになってからはなお一層のこと、
意識してモノと向き合う暮らしが展開されるのであった。
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